古賀政男を知る

写真:古賀政男氏

明治37年福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。

明治大学在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担う。在学中に音楽家を目指す。明治大学マンドリン倶楽部演奏会にて『影を慕いて』を発表。

レコード会社の専属の作曲家として数々の作品を発表しヒット曲を生み出す。これらは『古賀メロディー』と呼ばれ今もなお愛唱されつづけている。

作曲活動のかたわら、音楽親善大使として世界各地をまわり、戦後には広島平和音楽祭を開催し、音楽で平和を訴えた。

日本作曲家協会初代会長として日本レコード大賞を制定し、音楽界の発展に尽力。

昭和53年に永眠。没後国民栄誉賞を受賞、生前も多大なる音楽文化活動の功績に対し数々の賞を受賞している。

古賀政男のあゆみ

明治37年(1904年)
11月18日
福岡県三潴郡田口村(現:大川市)に生まれる。
明治43年(1910年) 父・喜太郎永眠。
大正元年(1912年) 母親、兄弟たちと仁川に住む長兄・福太郎の元に身を寄せる。
この頃、従兄弟から大正琴をもらう。
大正6年(1917年) 京城善隣商業学校に入学。
大阪在住の四兄・久次郎からマンドリンを贈られる。音楽家への道を志す。
大正12年(1923年) 明治大学予科に入学。マンドリン倶楽部の創設に参加する。
大正15年(1926年) 明治大学商学部に進学。
昭和4年(1929年) 明治大学商学部を卒業。
昭和5年(1930年) ビクターから「文のかおり」「影を慕いて」などが発売される。
昭和6年(1931年) コロムビアレコードと専属契約を結び、プロの作曲家として歩みはじめる。「酒は涙か溜息か」が大ヒット。
昭和9年(1934年) テイチクレコードに入社。文芸部を結成。
昭和11年(1936年) ビクターから藤山一郎を迎えて、「東京ラプソディ」を発売、大ヒットとなる。
昭和13年(1938年) 音楽親善使節としてアメリカへ向けて旅立つ。
ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。
昭和14年(1939年) NBC放送から「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」など5曲が世界に向けて15分間にわたって放送される。
再びコロムビアレコードの専属作曲家となる。
昭和23年(1948年) 「湯の町エレジー」が大ヒット。戦後も作曲界をリードする。
昭和34年(1959年) 日本作曲家協会を設立。初代会長となる。
日本レコード大賞を制定し、運営委員長となる。
昭和40年(1965年) 「柔」で日本レコード大賞・大賞を受賞。
昭和41年(1966年) 美空ひばり歌唱による「悲しい酒」が発売。大ヒットとなる。
昭和49年(1974年) 平和への願いを込めた『広島平和音楽祭』を開催する。
昭和53年(1978年)
7月25日
永眠。没後、音楽家として初めて国民栄誉賞を贈られる。
『古賀メロディー』と呼ばれて親しまれる数々の名曲を作曲。
その作品数は生涯4,000曲を超える。
写真:少年時代 写真:青年期 写真:NBC放送での様子 写真:庭でくつろぐ様子 写真:ギターを弾く様子 写真:指揮をとる様子

主な作品

  • 「影を慕いて」
  • 「酒は涙か溜息か」
  • 「丘を越えて」
  • 「サーカスの唄」
  • 「東京ラプソディ」
  • 「人生の並木路」
  • 「人生劇場」
  • 「誰か故郷を想わざる」
  • 「湯の町エレジー」
  • 「無法松の一生」
  • 「柔」
  • 「悲しい酒」
画像:主な作品の楽譜
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